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四国の今治から九州長崎の大学で学ぶため、春、夏、冬の休みの都度幾度となく利用していました。昼行特急では尾道から終着長崎まで乗り換えなく行くことができ、また連結13両の長大編成であり勇壮なものでした。かもめの名が新幹線にも引き継ぎ採用されるとのこと、うれしい限りです。
私が子供の時、祖父母に連れられて親戚のいる広島までこの気動車特急かもめに良く乗車していました。食堂車も良く利用していました。私はそこでこの食堂車に行くと必ずハンバーグステーキを注文していました。当時の味は今でも忘られません。もう旅をしながら食堂車で料理を堪能しながらのんびりした一時は体験出来ないと思うととても寂しい気分になります。また、一日も早く西九州新幹線の武雄温泉~新鳥栖までの開業を望んでいます。少年期まで長崎で過ごした私ですが、現在は東京に在住しています。東京から新幹線乗り継ぎ一回で長崎へ帰省してみたいです。これは私の妄想ですが、“さくら号”という新幹線が東京~長崎間走行してくれればと思うこともあります😅✋‼️……。
わたしは長崎県民ですが、古規格で開通しないと意味がないと感じておりわたしは飛行機が大嫌いなので、故郷の大阪へは新幹線で行くと思います前回は博多で乗り変えていったが、長崎から新大阪へ直通できるなら乗りたい
@@九州の関西人 さま佐賀県が通せんぼしてますからね.
この当時のかもめが一番思い入れのある特急でした。当時は特別急行と言ってて、特急に乗るときは、それなりの服装をしてました。
本来急行がベースですから、準急行、特別急行とありました正装して乗車、そうですね😂 そういう時代でしたね
凄い!新幹線並みの停車駅。鳥栖にも停まらないのには驚いた。
さすが、めっちゃ止まらんですね🥰最高🥰おばあちゃんの家から見える、かもめのファーンって言う、タイフーン音が、最高でした🥰
国鉄の気動車は、この「かもめ」をはじめ長駆500km以上走破した列車がありましたね。山陽本線で電車特急に抜かれず、よく頑張ったと賞賛し拍手を送りたいです。
電車特急に比べて、この気動車特急は停車駅を絞っており少なかったです。客車のしおじ5?号に乗りましたが、福山でこのかもめ号に抜かれた記憶がありますね。
@@hokutoseiexpress372 停車駅の少なさと全車指定席である事が「かもめ」の格式の高さを感じられます。
やっぱりヘッドマークは絵入りでなく文字とローマ字のみがいいです。
ひらがなはゴチック体、漢字は明朝体で表記していますね。例として秋田を8:00に出る白鳥は漢字、つばさはひらがなで一枚の写真で2本が対比出来ます。西鹿児島行きなはと併結相手の宮崎行き日向は前と後ろが異なる稀有な存在でした。
懐かしい音声ありがとうございます。まだ博多まで新幹線が開業していなかった頃母の故郷の博多までこの「かもめ号」に乗って連れて行かれた事を思い出しました。停車駅が少なく長旅だったのだなと
こちらこそコメントありがとうございます昔はこういうのが普通だったんですねちなみに私は、大阪~青森を特急『白鳥』往復したことあります
キハ82系、大好きだったけど、そっか、このかもめもわが故郷の駅を通過してたんですよね。まつかぜと同じだ。6番ホームをゆっくりと通過してたんでしょうね・・・
昔は京都始発の九州方面行特急があったのですが今や全滅。かもめは客車時代に大阪-広島で乗っています先頭がつばめ落ちのゴハチでした。
どうもです。一度でいいから、この列車に乗ってみたかった😢
どなたかのコメントと同様、私も下関から長崎の大学との往復に幾度となく利用いたしました。長崎から下関へは急行「出島」も利用しましたが、下関から長崎へはほぼ「かもめ」で、何度か食堂車も利用しました。私にとって「かもめ」といえばこのディーゼル特急です。50年位以上前の話です。
中坊の修学旅行で飯塚~京都まで 楽しい思い出でした。3泊4日でした。
修学旅行で乗れたんですか、うらやましい昔は割と鉄道もありましたよねわたしは中学校はバスでスキー(中部)だったので欠席した
昭和48年の8月に長崎佐世保ミニ周遊券で旅行した帰りに乗車しました。長崎から岡山までです。岡山からは三島行のこだま号で名古屋に帰りました。12時間乗りづめ。
これは便利な列車でしたね、博多から大阪何度乗ったか。広島大阪など区間利用もしました、それ程むかしと思わないが60年近く経ちますね
寝台特急あかつき の復活を願っております
昭和50年3月10日の博多開業の前日、かもめ号に乗りに行ったのが遠い良き思い出です 気動車特急では白鳥やはつかりなどと共に数少ない名列車ですね
京都で生まれ育った人間としてとても懐かしいですね 京都から小倉までは今ではとても考えられない13両の長大編成で運行していました 新幹線が博多まで開業した昭和50年3月に一旦廃止となり使用していたキハ82系は山口線・山陰線を走る「おき」に転用されましたが 1年後の昭和51年7月に長崎線と佐世保線の電化工事が完成して博多~長崎間の特急として復活 JRに移行後は「赤いかもめ」「ハイパーかもめ」「白いかもめ」を経て令和4年9月からは「新幹線かもめ」と「リレーかもめ」に生まれ変わって運行されています 西九州新幹線は去年乗りに行きましたがまた機会があれば長崎まで出かけてみたいと思います
これは懐かしい、まだ自分が幼いころ京都から母の実家がある小倉まで何回か乗った記憶があります。ディーゼル車であるという事はわかっていましたが、何でディーゼルという事まではわかっていませんでしたね。(エンジン音が勇ましいので、電車より速いのかなーと子供心に思っていました)山陽新幹線も全線開通していなかった頃だったので分割・併合とは言え13両の長編成だった事に驚きます。(しかも全席指定だったとは)どうりで切符がとれなかったとの事で電車急行の「はやとも」だったかな?しか乗れず子供心にがっかりした覚えがあります。それにしても車掌さんの声がクリアに録音されていますね、当時カセットテープでこんなにきれいに録音出来たんでしょうか?それとも小型のオープンテープ機を持ち込まれたのでしょうかね。いずれにしても私にとって懐かしいもので、ありがとうございました。
コメントありがとうございます私も驚いています、奇跡ですね大昔は長い編成が多かった、それに行き先が違う列車同士がよくつながっていました思い出が蘇っていただけて良かったです
関西から九州までのディーゼル特急はまつかぜ しか知らなかったのですが、こんなにロングランをする82系ディーゼル特急があるなんて知りませんでした。いずれも食堂車付きの13両の長大編成。当時、いかに九州⇔関西の(新幹線でない)需要が高かったのだと改めて考えます。
そうですね、急行列車も多数運転されていましたからねいまも関西と九州の需要はあると思うので、寝台特急あかつきを復活させてほしいと切に願う
今見てもキハ82はカッコいい。
新幹線も高速バスもない時代、始発駅で4分後に続行する急行「いなさ2号」「ちくご」小倉・熊本ゆきとの誤乗に注意を促し、諫早出たら九州内は佐賀、博多、小倉にしかとまらず、小倉でもう6両つないで京都へ。簡潔ながら重みのある案内放送。国鉄黄金時代の雰囲気が伝わってきます。貴重な音声をありがとうございます。
コメントありがとうございます
産まれて一番最初に乗ったのが「かもめ」でした、1週間後のことでした。。 それも京都発宮崎行きです。 この当時から神戸の中心は三ノ宮でしたね。 キハ82は寒地用ですね、翌日は青森に行くのでしょうか。 関西-九州の特急で客車時代は冷遇されてましたが36-10からは最新型のキハ82、50-3で1年ちょっとお休み、そして新幹線になりました。これからも羽ばたくでしょう。 さだまさし氏も「いとしいかもめ」と長崎小夜曲で歌ってます。
「いとしいかもめ」はじめて聞きました一応いまは長崎県民ですが・・・
@@九州の関西人 様 自分は関西の九州人でした。 宮崎は生まれて3年間住みました。 40年前関東に来ました。
わたしは平成15年まで関西圏(大阪市阿倍野区(出生地)、兵庫県尼崎市、奈良県生駒市、大和郡山市など)に住んでいましたが、田舎暮しを求め、長崎県大村市へ移住、とんだ大誤算でした。新幹線までできて田舎じゃなくなってしもた、阿倍野に帰りたい
山陽特急に使われてた頃のキハ82系は貴重ですね。
ディーゼルカーって本当に電車旅って感じで憧れた。所で昔、正月に特急列車にしめ縄つけてませんでしたっけ?
はい、そうですねディーゼルカーや、客車も大好きです夜行寝台列車の客車がなんとも心地よかった
西九州新幹線ができたのでこの放送もまた一つ過去のものとなってしまいましたね…
さみしいですが現実ですね
このかもめは、山陽九州特急で唯一全車指定席でした。しかも佐世保編成が、筑豊本線経由で運転されていました。なぜかもめだけが全車指定席だつたのか今でも不思議です。車両も当時最も古かったです。
車内チャイムが今まで聴いたことのない独特な音なんですが、キハ82系のオリジナル音源ですか?
かもめと同じ時間帯に走ったなは+日向を思い出すかもめと同編成なのに自由席があった
コメントありがとうございますそれだけ「かもめ」が優等だったということでしょう
食堂車が「都ホテル」で一般的な日本食堂より高級感がありました。
そういう違いまであったんですか?ありがとうございます!!
1973年4月号の鉄道ジャーナル誌は食堂車と従事する方達を追跡した稀有な特集で今も保存しています。都ホテル博多営業所持ちのみずほに乗車して東京から博多までを記録した泣き笑いの物語で読み応えがありました。あさかぜ博多~東京~博多休み、次はみずほ博多~熊本~東京~博多へ帰る。休み。の繰り返し。東京着いたらその日は都ホテル宿泊施設で一泊するなど内部事情も分かりました。この動画のかもめも都ホテルですが京都営業所と思います。他に181系あさしおも受け持ちでした。いずれも懐かしい。そして今は残念だ。
大阪駅で写真を撮りました たしか8:30頃? 1番線? ホームに入線したと思います 佐世保行きが直方経由(筑豊本線経由. 6両) あの頃は しおじ (なは,日向) まつかぜ みどり つばめ あかつき 彗星 明星 きりしま 他沢山の特急 急行が九州目指して営業運転!〜大変面白い時代でした
博多から先、大体新幹線停車駅なのに宮島口止まるのかw
グリーン車の時代なんですね。1等車じゃないんだ。
そこまでは・・・^^;
自由席がないとか食堂車あるとか、停車駅が少ないとか、急行とは一線を画してたんだろうなあ…
特別急行ですからね(笑)いまや特急とは名ばかりの列車も多くなり、急行がなくなって、それでも障害者手帳にはまだ急行券のみしか対応しないという。。。
長崎本線電化完成が遅れたから長らくキハ80系で残存したが、キハ181が安定稼働していれば置き換えすべき列車だった。
また長崎本線は架線剥がして非電化路線に逆戻りになる令和の御代
懐かしいけど同じ放送が何回も繰り返しで そこが残念?まつかぜや南紀 くろしおなどで82系乗りましたね‼️
なんででしょうか、聞いていると涙が出てきます。
懐かしさ?さみしさ?
@@九州の関西人 なんていいますか、JRじゃなくて国鉄だったよなぁって感じで。中学生の時に民営化してる世代なんですが。
国鉄分割民営化は、1987年4月33年前ですから、国鉄(JNR)さえも知らない人が多くなってきていますねなかなかJRというのがなじめなかったのを覚えています
この当時のかもめ号って鳥栖駅通過なのか...。てことは出島とか雲仙号が居た時代なのかな?
0:53 7両程は草
車掌さんのクセなんでしょうね(^^ゞ
0:28 長崎発車後
天理教団臨でよく桜井線に入線してたよ。懐かしいなぁ!
新幹線が岡山に延長されても接続ダイヤにはならず新大阪もスルーのマイウェイ特急でした。
よく分かりませんけど岡山に延長されたからこそ止まる必要がなくなったのでは?
もし長崎新幹線が実現したら、「かもめ」の新大阪行きは復活・実現するでしょうか?
西九州新幹線の全通&山陽新幹線直通運転が実現すれば、十分あり得ると思いますよただ、現在の九州新幹線でわかるように「つばめ」は九州新幹線内で完結していて(一部のぞく)別途「さくら」「みずほ」が設定されました西九州新幹線は区間が短いからそのまま「かもめ」が直通するんじゃないかなとは思いますちなみに、いま目の前に新大村駅を臨んでおります
本当は電車特急でもよかったでしょうが、佐世保から連結するかもめが筑豊本線経由で非電化区間なので、統一するためだったのでしょう。子供の頃昼間を走るこの特急かもめ号を見に行っていました。
当時は筑豊本線も活況でしたね
この時点で、長崎本線・佐世保線はまだ電化されていなかったのです。電化されたのは、新幹線博多開業の1年後(1976)でした。
@@30ftftft 電化は遅れに遅れたんですよね、本来は昭和48年を目指していてその予定通りだったら583の併結に変更されてあかつきと共通運用になるはずだったんですよ。(佐世保編成も鹿児島線にシフト)
@@30ftftft なるほど、それなら寝台特急あかつきのように筑豊本線経由で走らせた方が合理的ですね。
空きビンをくずもの入れ……😮
昔はごみの分別なんて概念なかったですものね^^;
@@九州の関西人 駅や旧型客車には痰壺なんて物までありました…今では考えられませんね。
福山と倉敷にとまらないんですね
山口県だけ停車駅 3つある笑笑
なのに小野田宇部はわかるが徳山岩国さえ眼中になくて通過するスゴさ!
四国の今治から九州長崎の大学で学ぶため、春、夏、冬の休みの都度幾度となく利用していました。昼行特急では尾道から終着長崎まで乗り換えなく行くことができ、また連結13両の長大編成であり勇壮なものでした。かもめの名が新幹線にも引き継ぎ採用されるとのこと、うれしい限りです。
私が子供の時、祖父母に連れられて親戚のいる広島までこの気動車特急かもめに良く乗車していました。食堂車も良く利用していました。私はそこでこの食堂車に行くと必ずハンバーグステーキを注文していました。当時の味は今でも忘られません。もう旅をしながら食堂車で料理を堪能しながらのんびりした一時は体験出来ないと思うととても寂しい気分になります。また、一日も早く西九州新幹線の武雄温泉~新鳥栖までの開業を望んでいます。少年期まで長崎で過ごした私ですが、現在は東京に在住しています。東京から新幹線乗り継ぎ一回で長崎へ帰省してみたいです。これは私の妄想ですが、“さくら号”という新幹線が東京~長崎間走行してくれればと思うこともあります😅✋‼️……。
わたしは長崎県民ですが、古規格で開通しないと意味がないと感じており
わたしは飛行機が大嫌いなので、故郷の大阪へは新幹線で行くと思います
前回は博多で乗り変えていったが、長崎から新大阪へ直通できるなら乗りたい
@@九州の関西人 さま
佐賀県が通せんぼしてますからね.
この当時のかもめが一番思い入れのある特急でした。
当時は特別急行と言ってて、特急に乗るときは、それなりの服装をしてました。
本来急行がベースですから、準急行、特別急行とありました
正装して乗車、そうですね😂 そういう時代でしたね
凄い!
新幹線並みの停車駅。
鳥栖にも停まらないのには驚いた。
さすが、めっちゃ止まらんですね🥰最高🥰おばあちゃんの家から見える、かもめのファーンって言う、タイフーン音が、最高でした🥰
国鉄の気動車は、この「かもめ」をはじめ長駆500km以上走破した列車がありましたね。
山陽本線で電車特急に抜かれず、よく頑張ったと賞賛し拍手を送りたいです。
電車特急に比べて、この気動車特急は停車駅を絞っており少なかったです。
客車のしおじ5?号に乗りましたが、福山でこのかもめ号に抜かれた記憶がありますね。
@@hokutoseiexpress372 停車駅の少なさと全車指定席である事が「かもめ」の格式の高さを感じられます。
やっぱりヘッドマークは絵入りでなく文字とローマ字のみがいいです。
ひらがなはゴチック体、漢字は明朝体で表記していますね。
例として秋田を8:00に出る白鳥は漢字、つばさはひらがなで一枚の写真で2本が対比出来ます。
西鹿児島行きなはと併結相手の宮崎行き日向は前と後ろが異なる稀有な存在でした。
懐かしい音声ありがとうございます。まだ博多まで新幹線が開業していなかった頃母の故郷の博多までこの「かもめ号」に乗って連れて行かれた事を思い出しました。停車駅が少なく長旅だったのだなと
こちらこそコメントありがとうございます
昔はこういうのが普通だったんですね
ちなみに私は、大阪~青森を特急『白鳥』往復したことあります
キハ82系、大好きだったけど、そっか、このかもめもわが故郷の駅を通過してたんですよね。まつかぜと同じだ。6番ホームをゆっくりと通過してたんでしょうね・・・
昔は京都始発の九州方面行特急があったのですが今や全滅。
かもめは客車時代に大阪-広島で乗っています先頭がつばめ落ちのゴハチでした。
どうもです。
一度でいいから、この列車に乗ってみたかった😢
どなたかのコメントと同様、私も下関から長崎の大学との往復に幾度となく利用いたしました。長崎から下関へは急行「出島」も利用しましたが、下関から長崎へはほぼ「かもめ」で、何度か食堂車も利用しました。私にとって「かもめ」といえばこのディーゼル特急です。50年位以上前の話です。
中坊の修学旅行で飯塚~京都まで 楽しい思い出でした。3泊4日でした。
修学旅行で乗れたんですか、うらやましい
昔は割と鉄道もありましたよね
わたしは中学校はバスでスキー(中部)だったので欠席した
昭和48年の8月に長崎佐世保ミニ周遊券で旅行した帰りに乗車しました。長崎から岡山までです。岡山からは三島行のこだま号で名古屋に帰りました。12時間乗りづめ。
これは便利な列車でしたね、博多から大阪
何度乗ったか。広島大阪など区間利用も
しました、それ程むかしと思わないが
60年近く経ちますね
寝台特急あかつき の復活を願っております
昭和50年3月10日の博多開業の前日、かもめ号
に乗りに行ったのが遠い良き思い出です
気動車特急では白鳥やはつかりなどと共に
数少ない名列車ですね
京都で生まれ育った人間としてとても懐かしいですね 京都から小倉までは今ではとても考えられない13両の長大編成で運行していました 新幹線が博多まで開業した昭和50年3月に一旦廃止となり使用していたキハ82系は山口線・山陰線を走る「おき」に転用されましたが 1年後の昭和51年7月に長崎線と佐世保線の電化工事が完成して博多~長崎間の特急として復活 JRに移行後は「赤いかもめ」「ハイパーかもめ」「白いかもめ」を経て令和4年9月からは「新幹線かもめ」と「リレーかもめ」に生まれ変わって運行されています 西九州新幹線は去年乗りに行きましたがまた機会があれば長崎まで出かけてみたいと思います
これは懐かしい、まだ自分が幼いころ京都から母の実家がある小倉まで何回か乗った記憶があります。ディーゼル車であるという事はわかっていましたが、何でディーゼルという事まではわかっていませんでしたね。(エンジン音が勇ましいので、電車より速いのかなーと子供心に思っていました)山陽新幹線も全線開通していなかった頃だったので分割・併合とは言え13両の長編成だった事に驚きます。(しかも全席指定だったとは)どうりで切符がとれなかったとの事で電車急行の「はやとも」だったかな?しか乗れず子供心にがっかりした覚えがあります。それにしても車掌さんの声がクリアに録音されていますね、当時カセットテープでこんなにきれいに録音出来たんでしょうか?それとも小型のオープンテープ機を持ち込まれたのでしょうかね。いずれにしても私にとって懐かしいもので、ありがとうございました。
コメントありがとうございます
私も驚いています、奇跡ですね
大昔は長い編成が多かった、それに行き先が違う列車同士が
よくつながっていました
思い出が蘇っていただけて良かったです
関西から九州までのディーゼル特急はまつかぜ しか知らなかったのですが、こんなにロングランをする82系ディーゼル特急があるなんて知りませんでした。
いずれも食堂車付きの13両の長大編成。
当時、いかに九州⇔関西の(新幹線でない)需要が高かったのだと改めて考えます。
そうですね、急行列車も多数運転されていましたからね
いまも関西と九州の需要はあると思うので、寝台特急あかつきを復活させてほしいと切に願う
今見てもキハ82はカッコいい。
新幹線も高速バスもない時代、始発駅で4分後に続行する急行「いなさ2号」「ちくご」小倉・熊本ゆきとの誤乗に注意を促し、諫早出たら九州内は佐賀、博多、小倉にしかとまらず、小倉でもう6両つないで京都へ。簡潔ながら重みのある案内放送。
国鉄黄金時代の雰囲気が伝わってきます。貴重な音声をありがとうございます。
コメントありがとうございます
産まれて一番最初に乗ったのが「かもめ」でした、1週間後のことでした。。 それも京都発宮崎行きです。 この当時から神戸の中心は三ノ宮でしたね。 キハ82は寒地用ですね、翌日は青森に行くのでしょうか。 関西-九州の特急で客車時代は冷遇されてましたが36-10からは最新型のキハ82、50-3で1年ちょっとお休み、そして新幹線になりました。これからも羽ばたくでしょう。 さだまさし氏も「いとしいかもめ」と長崎小夜曲で歌ってます。
「いとしいかもめ」はじめて聞きました
一応いまは長崎県民ですが・・・
@@九州の関西人 様 自分は関西の九州人でした。 宮崎は生まれて3年間住みました。 40年前関東に来ました。
わたしは平成15年まで関西圏(大阪市阿倍野区(出生地)、兵庫県尼崎市、奈良県生駒市、大和郡山市など)に住んでいましたが、田舎暮しを求め、長崎県大村市へ移住、とんだ大誤算でした。
新幹線までできて田舎じゃなくなってしもた、阿倍野に帰りたい
山陽特急に使われてた頃のキハ82系は貴重ですね。
ディーゼルカーって本当に電車旅って感じで憧れた。所で昔、正月に特急列車にしめ縄つけてませんでしたっけ?
はい、そうですね
ディーゼルカーや、客車も大好きです
夜行寝台列車の客車がなんとも心地よかった
西九州新幹線ができたのでこの放送もまた一つ過去のものとなってしまいましたね…
さみしいですが現実ですね
このかもめは、山陽九州特急で唯一全車指定席でした。しかも佐世保編成が、筑豊本線経由で運転されていました。なぜかもめだけが全車指定席だつたのか今でも不思議です。車両も当時最も古かったです。
車内チャイムが今まで聴いたことのない独特な音なんですが、キハ82系のオリジナル音源ですか?
かもめと同じ時間帯に走ったなは+日向を思い出す
かもめと同編成なのに自由席があった
コメントありがとうございます
それだけ「かもめ」が優等だったということでしょう
食堂車が「都ホテル」で一般的な日本食堂より高級感がありました。
そういう違いまであったんですか?ありがとうございます!!
1973年4月号の鉄道ジャーナル誌は食堂車と従事する方達を追跡した稀有な特集で今も保存しています。
都ホテル博多営業所持ちのみずほに乗車して東京から博多までを記録した泣き笑いの物語で読み応えがありました。
あさかぜ博多~東京~博多休み、次はみずほ博多~熊本~東京~博多へ帰る。休み。の繰り返し。東京着いたらその日は都ホテル宿泊施設で一泊するなど内部事情も分かりました。
この動画のかもめも都ホテルですが京都営業所と思います。他に181系あさしおも受け持ちでした。
いずれも懐かしい。そして今は残念だ。
大阪駅で写真を撮りました たしか8:30頃? 1番線? ホームに入線したと思います 佐世保行きが直方経由(筑豊本線経由. 6両) あの頃は しおじ (なは,日向) まつかぜ みどり つばめ あかつき 彗星 明星 きりしま 他沢山の特急 急行が九州目指して営業運転!〜大変面白い時代でした
博多から先、大体新幹線停車駅なのに宮島口止まるのかw
グリーン車の時代なんですね。1等車じゃないんだ。
そこまでは・・・^^;
自由席がないとか食堂車あるとか、停車駅が少ないとか、急行とは一線を画してたんだろうなあ…
特別急行ですからね(笑)
いまや特急とは名ばかりの列車も多くなり、急行がなくなって、それでも障害者手帳にはまだ急行券のみしか対応しないという。。。
長崎本線電化完成が遅れたから長らくキハ80系で残存したが、
キハ181が安定稼働していれば置き換えすべき列車だった。
また長崎本線は架線剥がして非電化路線に逆戻りになる令和の御代
懐かしいけど
同じ放送が何回も繰り返しで そこが残念?
まつかぜや南紀 くろしおなどで82系乗りましたね‼️
なんででしょうか、聞いていると涙が出てきます。
懐かしさ?さみしさ?
@@九州の関西人 なんていいますか、JRじゃなくて国鉄だったよなぁって感じで。中学生の時に民営化してる世代なんですが。
国鉄分割民営化は、1987年4月
33年前ですから、国鉄(JNR)さえも知らない人が
多くなってきていますね
なかなかJRというのがなじめなかったのを覚えています
この当時のかもめ号って鳥栖駅通過なのか...。
てことは出島とか雲仙号が居た時代なのかな?
0:53 7両程は草
車掌さんのクセなんでしょうね(^^ゞ
0:28 長崎発車後
天理教団臨でよく桜井線に入線してたよ。懐かしいなぁ!
新幹線が岡山に延長されても接続ダイヤにはならず新大阪もスルーのマイウェイ特急でした。
よく分かりませんけど岡山に延長されたからこそ止まる必要がなくなったのでは?
もし長崎新幹線が実現したら、「かもめ」の新大阪行きは復活・実現するでしょうか?
西九州新幹線の全通&山陽新幹線直通運転が実現すれば、十分あり得ると思いますよ
ただ、現在の九州新幹線でわかるように「つばめ」は
九州新幹線内で完結していて(一部のぞく)
別途「さくら」「みずほ」が設定されました
西九州新幹線は区間が短いからそのまま「かもめ」が
直通するんじゃないかなとは思います
ちなみに、いま目の前に新大村駅を臨んでおります
本当は電車特急でもよかったでしょうが、佐世保から連結するかもめが筑豊本線経由で非電化区間なので、統一するためだったのでしょう。子供の頃昼間を走るこの特急かもめ号を見に行っていました。
当時は筑豊本線も活況でしたね
この時点で、長崎本線・佐世保線はまだ電化されていなかったのです。電化されたのは、新幹線博多開業の1年後(1976)でした。
@@30ftftft
電化は遅れに遅れたんですよね、本来は昭和48年を目指していてその予定通りだったら583の併結に変更されてあかつきと共通運用になるはずだったんですよ。(佐世保編成も鹿児島線にシフト)
@@30ftftft なるほど、それなら寝台特急あかつきのように筑豊本線経由で走らせた方が合理的ですね。
空きビンをくずもの入れ……😮
昔はごみの分別なんて概念なかったですものね^^;
@@九州の関西人
駅や旧型客車には痰壺なんて物まで
ありました…
今では考えられませんね。
福山と倉敷にとまらないんですね
山口県だけ停車駅 3つある笑笑
なのに小野田宇部はわかるが
徳山岩国さえ眼中になくて通過するスゴさ!
グリーン車の時代なんですね。1等車じゃないんだ。